あの日の事は鮮明に覚えています。
たしか雨が降っていて、りっつさんはなんの興味もない大学の講義を終え、一目散に一人暮らしの狭い部屋に帰宅しました。

こういう日に限って電車は遅延するし傘は忘れるし、散々な事が多いものです。障壁が現れることは人生にとってプラスだといいますが、そんなことを湿り気と人間のつまった満員電車で感じたくはありません。

雨で濡れた鍵は滑り、心のはやりもあいまって、鍵を開けるのに3回も失敗しました。
4回目にようやくドアノブを捻ることに成功し、部屋に高速で滑り込むと、私は荷物を投げ捨ててただその瞬間を待っていました。

時計の針の動きを見ているとナメクジの徒競走を見ている気分になります。手で針を推し進めようとしても現実は変わりません。りっつさんには、ただ待つことしかできませんでした。

その時チャイムが鳴った…

待つこと30分。運命の時が訪れました。

宅配員の差し出す伝票に、文字か落書きか判別できないようなサインをしてダンボールを受け取ります。
amazonの文字がニヤニヤと私の行く末を嘲笑しているかのようです。

びりり、とガムテープを剥がし、中に入っている黒い塊を確認します。
ビニールに包まれたそのウィッグこそが人生ではじめて手にした女装のための道具でした。

最初にウィッグをかぶった時、心臓の爆音は付近3kmの人家全てに響き渡るくらいでしたし、汗の量は1時間に100ミリ以上の猛烈な雨のようなレベルでした。

頬や額にまとわりつくリアリティに、りっつさんは生まれて初めて生きている実感を得たような気がしました。しかし現実は残酷ですし、神様はひょうきん者です。

おそるおそるのぞいた鏡に写りこんでいたのは紛れもない妖怪だったのでした。

当時のりっつさんは楽観主義者でした。
「ウィッグをかぶれば誰でも女の子になれる。そんな魔法がウィッグにはあるの。」
全くもって愚かしいことなのですが、不思議とこんなことを信じてやまなかったのです。

ここまで楽観的なりっつさんは一度滝にでも打たれて森羅万象の神々に懺悔をすべきほどの愚かさだったわけなのですが、何せ自分は男として19年の日々を送ってきていたわけで、おなごを装うという現実を知ることができないのはある意味当たり前だったのだと思います。

これはいけない。

さすがのりっつさんも考えました。

黒い毛の塊を頭に乗せて必死に考えました。

走れりっつ!!

女装を形作る要素とはなんでしょうか。

髪の毛?お化粧?服?

ぱっと候補に上がったのがこの3つでした。というか、これくらいしか考えつきませんでした。

そうと決まればやることは一つです。世の中の勝者は皆かならず行動をしています。行動しない者に成功はありません。
人類はそうやって進化してきました。

走れ若者、走れメロス、走れ女装。そうして雨がやんだ街を100均に駆け込みました。

しかし…行動力だけでは前に進むことはできません。なぜなら知識がないからです。何を買えばいいのでしょうか。
最新の宇宙理論よりも、300年の未解決問題よりも難しく感じます。女の子の見た目を獲得するためには何が必要なのでしょうか。

OK Google、Thank you YAHOO! 「メイク 初心者 道具」と検索欄にうちこみます。

文明の知恵により、100均でいくつかのアイテムを手に入れることができました。

・コンシーラー
・ファンデーション
・アイシャドウ
・アイライナー
・マスカラ
・チーク
・カラーリップクリーム(リップは置いていなかった)
・ビューラー

合計8品目864円。ドラクエで言えばヒノキの棒を入手したといったところでしょうか。

もちろんクエストがスムーズに成功したわけではありません。「男がメイク道具を一式買い揃えている」という絵面。当時のりっつさんはこれが死ぬほど恥ずかしかったのです。

全身のすべての穴という穴から意味不明な冷や汗が吹き出し、店舗を水没させてしまってもおかしくはありませんでした。
体温の上昇もとどまることを知らず、蒸発して消えてしまう可能性さえありました。化粧品コーナーでまごまごしながら立ったり座ったりを繰り返し、一向にレジに足が向かないりっつさんはどうみても不審者です。

居合わせたお客さんたちも怪訝そうな目でこちらを遠巻きに見ています。

動物園の檻の中からの景色をはじめて体感した気がしました。

こうして30分ほど謎の格闘をしたのち、ついにりっつさんは決心を固めました。レジへの一歩は月への一歩。この小さな一歩は自分にとって大きな一歩なのです。

「いらっしゃいませ」

にこやかな店員の微笑みに一瞬不信感がよぎったのをりっつさんは見逃しませんでした。
「何この男、一人で化粧品なんて買って…」
そう言いたげな口元は次の瞬間に見事な営業スマイルに変わりました。これが接客のプロのなせる技なのです。彼女は圧倒的な勝者でありました。

「…ゆ、ゆうちゅうばあなんです」

一方の敗者のりっつさんは意味のわからぬ言い訳をしてしまいましたが彼女の耳には届いていなかったようでした。

恥ずかしさからか顔面ゆでだこ星人になったりっつさんはレジ袋に品物を詰めてもらった瞬間に走り出しました。誰よりも早く。何よりも早く。この瞬間、間違いなく私は風でした。

そんなこんなでなんとか化粧品を手に入れたりっつさんは、まだ何かが足りていないことに気がつきました。

そうです、服です。

こんなTシャツ短パンおっさん丸出しマンがウィッグをかぶってメイクをしたところで、よくて文化祭の出し物程度にしかなりません。

悪ければ猥褻物陳列罪や迷惑条例違反などで身柄を拘束されることだって考えられます。なんとか可愛い洋服を手にいれる必要があります……。

しかし時刻は深夜です。2時間もすれば魑魅魍魎の跋扈する丑三つ時が訪れます。

こんな時間に営業しており、かつ服を入手できる場所は一つしかない。そう、驚安の殿堂ド○キホーテです。

思い立ったら、いつだってそこは迎えてくれる

深夜のドンキホーテは日中の混雑を忘れ、近隣に居住する中国人などのテリトリーとなります。
これならば一人くらい女性服を熱心に見つめる男性がいても気にはされないはずでしょう。

私は覚悟を決め、おそるおそる女性服売り場へと潜入したのでした。

はじめて訪れるそこはワンダーランドでした。自分が決して着ないであろう服がずらりとならび、素敵な人にまとわりつく瞬間を今か今かと待ち続けていたのです。

でもりっつさんはこれまで全くもって女性服など気にしたことがありませんでした。
なので何を買えばいいのか全く分かりません。
どの服が似合うのか、どの服が流行りなのか、サイズ感はどうなのか……様々な懸念事項が頭をぐるぐると回って雑念の渦潮に飲み込まれてしまいそうです。

結局手に取ったのはビニールの袋に詰められた、いかにも安っぽい感じのワンピースでした。そそくさと店を出て、一目散に家に帰りつきました。

さて、こうしてひとまずの準備が整いました。すでに心臓はバクバク鳴り止むことはなく、りっつさんは興奮でハイになっておりました。

クライマーズハイならぬ、クロスドレッサーズハイです。

そんなりっつさんの女装ライフの火蓋は、今にも切って落とされようとしていたのです。

(後半に続く…)

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